Krishnamurti 分離なき観察     Ver 1.43


―見るものと見られるもの、観察者と観察対象、思考者とその思考とのあいだ―




主体と客体とのはざまに、人類の悲惨のすべてが横たわっている。



私は「あるがままのもの」を変えたがるのです。
自分の外界の「あるがまま」を変えることはできなくても、
自身の内面の「あるがまま」は変えられると思うのです。

しかし、それをどう変えたらいいか分からないので
私は努力し、途方にくれ、失望します。
「私には変えられない」と呟き、
変わるためのエネルギーを無くしてしまうのです。

そこでまず、あるがままを変える前に、
変更者―変えようとしているのは誰なのかを知らなければなりません。

観察者がいないときにのみ、あるがままのものを見ることができます。
あなたがあるがままを変えたいと願うとき、観察者は現れるのです。
「私はあるがままの自分が嫌いだ、今のままでいいとは思えない、だから、それを変えなければ」と
あなたは言います。
それゆえ、たちどころに二元性が生じるのです。

精神は、自身のあるがままの事実を観察者なしに観察できるでしょうか。



そこで質問はこうです。
一つの過程だけがあるならば―そして、その過程を見守る中心・見守る私がないならば、
そのとき、どうやって、その過程がそれ自体を観察することができるでしょうか。

その過程全体は常に活動的で動いており、絶え間なく変化しています。
もし中心が無いなら、見守る人がいないなら、
どうやってその過程がそれ自身を観察することができるのでしょうか。

私たちは通常、
「観察者(過程とは別のもの、過程を見ている中心・私)が居る」と感じています。
思考者と思考、経験者と経験が存在する―
私たちにとって、それは実感を伴った事実です。
しかし、それは本当にそうなのでしょうか。

思考とは別の、経験内容とは別の、思考者、観察者、見守る人が居るのでしょうか。
思考なしに、思考者・中心があるのでしょうか。
思考を取り去ったあとに、思考者という核が残るでしょうか。
まったく思考を持っていないなら―
努力奮闘がなく、獲得したい、何かになりたいという欲求がないなら―
中心がありますか?
それとも中心は思考によって作り出され、
それが絶え間ない変化の状態のなかで、それ自身に永続性を与えているのでしょうか。

あなたが真に観察するなら、
そこにはただ思考の過程しか存在しないということに気づくでしょう。
見ている人なしに、この過程に気づいていること、見守ることができるでしょうか。
心は、それ自身に気づいていることができるでしょうか。
これは大いなる観察を必要とすることです。

私たちは通常、考えることとは別に「考えてる人」がいるのを当然のことだと思っています。
しかし、あなたが真に注意を注いでそれを調べるなら、
思考が思考者を作り出しているのだという、この事実に行き当たるでしょう。
指図している中心、検閲官である思考者は、私たちの思考の結果なのです。

心は中心なしに、行為のなか、動きのなかで、
それ自身に気づいていることができるでしょうか。
それは「考えている思考者」ではなくて、
「考えている過程のみがある」ということの気づきがあるとき可能です。
「思考の過程のみしかない」ということを完全に理解することは全くの経験ですよ。
しかし、それを経験することは非常に難しい。
なぜなら思考者は、評価し、判断し、非難し、比較し、同一化しながら
常にそこに居るからです。
思考者が、同一化、評価、判断などを止めることができるなら、
そのとき、中心なしに、考えていることのみがあります。

中心とは何でしょう。
中心とは、私―
たいした人間でありたい、多くの知識、結論、恐怖、欲求を抱えた私です。
その中心から私たちは考えます。
しかし、その中心は思考の運動によって作り出されたものなのです。

それで心は、中心なしに、考えていることに気づいていることが、
ただそれを観察するということができるでしょうか。

あなたは、花を名づけることなしに、他の花と比較することなしに、
好きとか嫌いとか評価することなしに、ただ注意深く見つめるということが
どれほど難しいことであるか知るでしょう。
このことを実験してごらんなさい。
そうすれば、あなたの知識のすべて、あなたの感情と評価のすべてを持ち込むことなしに
何かを観察することが、どれほど難しいことであるか分かるでしょう。
しかし、どんなに難しかろうとも、
心の動きを見守る中心なしにそれ自身に気づいていることはできるのです。



恐怖がそこにあるとき、観察者はまさにその恐怖それ自体です。
あなたはそれを、言葉の上で理屈として納得するか、
あるいはそれを実際に見るかのどちらかです。

あなたがそれを実際の事実として見るなら、
それはあなたの生に劇的な変化をもたらします。
それは、あらゆる葛藤を終わらせるでしょう。
観察者と観察されるものとの間に、分離・隔たり・時‐空(time-space)がある限り、
葛藤をまぬがれません。

あなたが徹底した観察によって、観察者と観察される対象とが実際に一つであることを見抜くとき、
そのとき、生のなか、関係のなかの、すべての葛藤が終わってしまうのです。



木を注意深く見、そしてあなたとその木との間に距離を持たないことは、
するのがもっとも困難なことの一つです。
その木を注意深く見て下さい。

あなたは距離を持って、
あなたが自分自身の周りに、信念、恐怖、教義、欲望を通じて作り出してきた境界線を持って、
見ているのでしょうか。

確かに、そのように見ているとき、
あなたと木との間には距離があり、あなたは注意深く見ていることができません。

しかし、あなたの周りに境界線がなく、そこからあなたが見ている中心がないとき、
そのとき、あなたと木との間に距離があるでしょうか、見出して下さい。

注意深く見て下さい。
家族や仕事を持って生きている私たちは、
自分自身の周りに、意識的・無意識的に孤立の壁を造り上げてしまっています。
経験としての知識を集めてしまいます。
私はたくさん知っているが、あなたは少ししか知らない。
私はたいした人間だが、あなたはそうでもない。
自身の周りに巨大な防御壁を築き、
そしてこれらの防御壁越しに生を見るのです。
その防御壁が知識であれ自惚れであれ、
作家として、詩人として、科学者として学んできた技能・技術であれ、
それを通してあなたは見るのです。

非難・正当化の中心、検閲官があるとき、距離があります。
しかし、検閲官としての中心がないとき、
事実と自分自身との間に距離があるでしょうか、分離があるでしょうか。

私は怒っています。
私は自分が怒っているということに気づきます。
それは私と分離した何かです。
私は「私が怒りだ」とは言わないで、「私は怒っている」と言います。
「私は怒っている」と言うとき距離があります。
そう言った後に、私はその怒りを押し沈めたり修正したりしようとします。

しかし「自分が怒りである」ことを直接に知覚するとき、
何かそのようなことをするための時間‐空間はなく、事実だけがあります。

そのとき、「あるがままのもの、事実存在するもの」が非常に重要になります。
―どうやってそれを変えるか、どうやってそれを取り除くかではなく。

したがって、検閲官によって作り出された距離がないとき、
「あるがままのもの」が完全に変容するのです。



質問者:どうすれば、この完全な変容を生じさせることができるのでしょうか。

クリシュナムルティ:知識には全面的な変容をもたらすことが可能でしょうか。
過去のもの(知識)が、心の性質に完全な変化をもたらすことができるでしょうか。
それとも、過去のものからの自由があり、
そのため、心が絶え間のない革命のなか、絶え間のない変化の動きのなかに
いなければならないのでしょうか。

知識、経験の記憶としての中心は、観察者としてあるのではないでしょうか。
それぞれの個人のなかに、「これは正しい」「これは間違っている」
「これは良い」「これは悪い」と言う検閲官・自我が居ます。
彼は観察者であり、彼が観察するものから自分自身を切り離しています。
常に過去のものである検閲官・観察者が、
絶え間ない変化のなかにある新しいもの―「あるがままのもの」を観察しているのです。



直接的に調べるためには、
暴力を免れたい実体―本人―が、
暴力それ自体と別であるかどうかを尋ねなければなりません。
ひとが「私は暴力的だ」と認めるとき、
暴力から解放されたい「私」は、彼が「暴力的」と呼ぶ性質とは異なっているでしょうか。
すなわち、自分は暴力的であると感じる「経験者」は、
暴力的な思い・気持ちという「経験内容」と異なっているでのしょうか。

明らかに、経験者は経験された内容と同じものです。
彼は自らの経験内容と異なって(離れて)はいません。
これを理解することが非常に重要です。
なぜなら、人が本当にそれを理解するなら、
そのとき暴力からの心の解放と、まったく自己中心的ではない行為があるからです。

私たちは、思考から思考者を分離してきたのではないでしょうか。
私たちは「私は暴力的です。故に暴力を免れるため努力しなければなりません、
自分の心を変えなくてはなりません」と言います。
そして自分の心を変えるため、自分自身を訓練します。
私たちは非暴力を習慣的に実行します。
それについて毎日考え、それについて何かしようとします。
それは私たちが、「私」―努力のなし手―は、
私の経験内容とは異なっていると見なしていることを意味します。
しかし、これは本当にそうなのでしょうか。
この二つのものは本当に異なっているのでしょうか。
それとも、それらは本当はまったく同一のものなのでしょうか。

明らかに、思考がないなら思考者はありません。
しかし、思考者・私は、暴力性から逃れようとすることのなかで
彼の意志を常に働かせています。
彼は、彼が暴力と呼ぶ性質から彼自身を分離してきたのです。
しかし、それらは分離してはいません。
それは単一の動きです。

そして実際に、その単一の状態を経験すること―
それは思考者と彼の思考との間の、
暴力的である「私」と「暴力性それ自体(暴力的な思い・気持ち)」との間の区分がないことを意味しますが―
それは心が自己中心的な活動なしに暴力から自由であろうとするなら絶対に必要なことです。

思考者は思考から離れてはいません。
しかし私たちは、それを分離してきたのです。
私たちのなかに、常に、観察者、見張り人、検閲官がおり、
それは絶えず分析し、非難し、修正・制御し、正当化してきたのです。
検閲官は、常に彼の思考を操作しようとしています。
しかし、思考が検閲官なのです。
その二つのものは分離していません。
そして、自己中心的な活動がない革命的な変化をもたらすためには、
これを実際に経験することが絶対に必要なのです。

結局、私たちが変化しなければならないということは急を要しています。
私たちは、これほどにも多くの戦争、多くの破壊、暴力、恐怖、悲惨を持ってきました。
そして私たちが根本的に変わらないなら、同じ古い道を歩み続けるでしょう。
単に新しい一組のスローガンを受け入れたり、国家や宗教に自分を捧げたりするのに過ぎないのではなく、
根本的に変化するためには、
この悲惨すべてを終えるために起こらなければならない根本的な革命を本当に理解するためには、
自己中心的ではない行為があり得るかどうか見出すことが絶対に必要です。

「思考のみがあり、思考者はいない」というこの事実を
私たちが自身で直接経験しない限り、
確かに行為は常に自己中心的であることでしょう。
しかし、私たちが一旦このことを本当に理解するなら、
そのとき「努力」がまったく違った意味を持つことを知るでしょう。

現在、私たちは努力してるのではないでしょうか。
目的を達成し、到達するため、変わるため、何かになるため、努力してるのではないでしょうか。

私が怒っており、成功を求めており、みじめであるなら、
私は「そうでなくなろう」と努力します。
しかし、そのような努力はなお自己中心的です。
なぜなら私は、否定的に「何かになろう」としているからです。
そこには、なお野心があり暴力があるのです。

それで、私が自己中心的な動機なしに根本的に変わるつもりなら、
変化の問題を非常に深く突っ込んで調べなければなりません。
このことは私が伝統を離れ、理想を離れ、訓練・実習などのいつものやり方から離れて、
まったく異なった考え方をしなければならないということを意味します。

私は、「思考者」とは誰か、「思考」とは何かを調べ、
思考が思考者とは異なっているのかどうかを見出さなければなりません。
思考はそれ自身を分離してしまい、思考者を樹立してしまうのですが、
それはなお思考の一部なのです。
そして思考が暴力的であるかぎり、思考者による思考の制御には何の意味もありません。

そこで質問はこうです―
心は、暴力を免れることを望む思考者として自身を分離してしまうことなしに、
その暴力性(それ自身)に気づくことができるでしょうか。

これは本当はそれほど複雑な問題ではありません。
もしも、それを検討しているあなたと私が個人として、
それを非常に注意深く調べることができるなら、
その並外れた単純さを見るでしょう。

単純な事実は、「経験なしには経験者はいない」ということです。
経験者は経験なのです。
この二つのものは分離していません。
しかし、経験者が彼自身を分離し、もっと多くの経験を望むかぎり、
「これ」を「あれ」に変えることを望むかぎり、
どんな根本的な変容もないでしょう。

私たちが必要とする根本的な変化は、どんな理想もないときにのみ可能です。
理想は修正・改善です。
そして単にそれ自身を改善しようとしているに過ぎない心は、
決して根本的に変わることができません。
心が、訓練に、それ自身をパターンに適合させることに関わっているなら
―そのパターンが伝統、指導者によるものであれ、
あるいは自分自身によって確立されたものであれ―
どんな根本的な変化もあり得ません。
心がどんなに高貴であれ、
その自己中心的な関心に従って「為すこと」の観点から考えているかぎり、
どんな根本的な変化もあり得ないでしょう。

そこで私たちは、まったく違った観点から変化の問題を調べなければなりません。
全的な理解は、思考者と思考の間にどんな分離もないときにのみ生じます。
それは並外れた経験です。
あなたはためらいがちに、細心の注意と調査でもって、それに到達しなければなりません。

そういう訳で、自身のなかに根本的な変化をもたらすことを望む人は、
この問題を非常に真剣に、深く、突っ込んで調べなければならないのです。
それは私自身から暴力の構造全体を完全に取り除くことを意味します。
そして、それは途方もなく明晰な思考、深い瞑想を必要とします。



観察者・知覚者がいて彼が知覚するかぎり、それは真理ではありません。
真理は、知覚者がおらず、ただ知覚のみがあるとき、有り得ます。
それはまったく別のことがらです。



私の関心は、ひと独りの生―現実の、あたりまえな、断片的な、愚かな生にあります。
そして私は問います―
それは根源的に変わることができるだろうか。
その構造は、それ自らを終りにすることができるだろうか。

もし、あなたが観察する者なしにすべてを観察することができたなら―
それは可能なのです。



あなたが花に目をやるとき、あなたは実際の花を見ているのでしょうか。
それとも、その花についてのイメージを見ているのでしょうか。

その二つは全く異なったことです。
あなたが、その花の名前を思い浮かべることなしに、
言葉も、思考もなしに、それについての感想、好/悪の反応などの内心の呟きなしに、
いかなるスクリーンをも通さず見守るなら、
その花は驚くべき色彩と美とを帯びてくるはずです。

見ることと学ぶことは一つの偉大なアートです。
もし、あなたが敏感で生き生きしており、
内外のあらゆるものを見守っているなら、
あなたと花の間との空間は消え去るでしょう。
その空間が消滅するとき、
物事は驚くほど生き生きしており、異様なほど強烈に見えます。

同じように、あなたがその空間なしに自分自身を観察するとき、
観察者と観察される対象(思考・感情・感覚)とのあいだの空間がないとき、
何の矛盾も葛藤もないことを理解されるでしょう。

見ることが学ぶことです。
それによって心は快楽を求めようとはしなくなります。
そのとき生は全く異った意味を帯びます。
人は生きるのです、何の追求もなく。



意志的な行為は常に二元的であるでしょう。
物を二つに分離させるこの意志を超越して、
二元的行為が存在しない状態を発見することは可能でしょうか。
それは、「思考する人」と「思考」が一体になった状態を
私たちが直接体験するとき、可能となります。



もし目的がないなら、行為者は存在しないのです。
目的を持った行為が行為者を生み出すからです。
したがって、結果を求める欲求がなければ行為者は存在しないのです。



私たちは、
「苦しんでいる当のもの(当体)が何であるか見てみよう、調べてみよう」とは決して言わないのです。
私たちが対象に対し、自分の外にあるものとして関係しないかぎり問題は存在しないのです。
しかし外部のものとしてその対象と関係するや否や問題が生じます。
私が苦悩というものを自分の外にあるものとして扱うかぎり苦しむことになるのです。
しかし、「他ならぬ私自身がその対象である」と云う事実を見るなら、
その対象全体が一変し、全く違った意味を持つのです。
そのとき完全で全的な注意力が生まれ出ます。

そして完全に見られたものは、理解され、解消されてしまうのです。
そこには恐怖というものがなく、
従って、「悲哀」という言葉も存在しないのです。



ここで為されるべき唯一のことは、一切の「為すこと」を中止することです。
混乱から離れようとする運動の全てを止めてしまうのです。
そこで全ての運動が止まります。
混乱だけが残ります。
一層の混乱の原因となる、そこから離れようという思考の動きは一切ありません。

そのとき問いが起こります。
あなたは、観察者―外から見ている何者か―として、この混乱に気づいているのでしょうか。
それともあなたは、この混乱の一部なのでしょうか。
観察者は、観察されているもの―混乱―と違うでしょうか。

「観察者」が「観察されている対象」と切り離され、分断されているなら、
そのとき矛盾があります。
その矛盾そのものが混乱の実体なのですが。

それゆえ、心がどんな風にこの混乱を見ているかが重要です。
心は混乱を、自身とは別の、自身から切り離された何かとして観察しているのでしょうか。
それとも「観察者(見ているもの)」は「観察対象(見られているもの)」なのでしょうか。

どうか、この最も重要なことをよく理解して下さい。
あなたがこれを一度見るなら、
それは、あなたの生のなかにどれほどものすごい変化をもたらすことでしょう。
すべての葛藤が取り除かれます。
観察者は、もはや「私はそれを変えなくてはならない」「私はそれを無くさなくてはならない」
「私はそれを理解しなくてはならない」などとは言いません。
そのような活動はすべて、自身を混乱から切り離してしまい、
それゆえ自身と混乱との間に葛藤を作り出してしまった観察者の活動なのです。



あなた自身を知るために、
あなたは思考の一つ一つの動きに完全に気づいていなければなりません。
そのとき、その気づきのなかで、
思考者が彼の思考と違っているのかどうか見出すでしょう。
もし違っているなら、
「どうやって思考を制御し修正するか」という問題が出てきます。
そこから、あらゆる精神的修養という馬鹿げたことが始まるのですが。

しかし、彼の思考とは別の思考者が居るのでしょうか。
思考者は、その思考なのではないでしょうか。
それらは別個のものではなく、単一の過程なのではないでしょうか。

「私」とは思考なのです。思考している思考者ではなく。
そして、この「思考者は思考である」「思考のみがあって思考者はいない」
という理解は直接の経験でなければなりません。
このような理解があるとき、思考を超え出る可能性があります。



精神は表層、深層を問わず恐怖を観察し、
それに全的な注意を注ぐということができるでしょうか。
つまり、どんなものであれ恐怖が湧き起こったその瞬間、
その恐怖だけになれるでしょうか。

全的に観察するとき、
(その全的な観察は、過去である「観察者」がいないときにのみ起こり得ます)
一瞬にして恐怖の全体が追い払われるのです。



私たちは、問題・葛藤を抱えた存在です。
私たちは一般に、その問題の説明を専門家に求めます。
決して自らの力で、その問題・その事実を見てみようとはしません。
私たちはいつも、
「その問題について、私は何をしたらいいのでしょうか」と誰かに尋ねています。
あなたが問題解決のための「手段・方法」を問うとき、
その答えは常に過去のものに基づいていることでしょう。
なぜなら、それがあなたが知っている唯一のものであるからです。
あなたの存在全体が過去のものに基づいています。
その思考のすべてが、過去のものの反応―記憶、知識、経験の反応なのです。
それゆえ思考は決して新しくなく、決して自由でありません。
この思考の過程を伴って、あなたは生を見ます。
したがって「私はこの問題を、どうやって解消したらいいのですか」と問うとき、
あなたは既に問題=事実から逃げてしまっているのです。

そこで私たちは、問題が何であるか観察し、学ぶことができるでしょうか。
あなたはそれをどんな風に見ますか。
非難しますか。それとも正当化しますか。
しないなら、では、どんな風にそれを見ますか。

どうか、今、これを行なって下さい。
あなたはこの運動を―それは問題を抱えた人間としてのあなた自身ですが―
内部を覗いている外なる観察者として見ますか。
見られている対象とは離れた、外部の観察者として見ますか。
それとも、それなしに、観察者・検閲者なしに見ますか。

あなたが観察者として見ているとき、
あなたは他の諸断片より重要である一断片を装っているのです。
あなたが他の諸断片を見ている一断片として見ているとき、
そのとき、その一断片は権威者の立場に就きます。
そしてその断片は、矛盾を、それゆえ葛藤を引き起こします。

しかし、あなたが断片なしに見ることができるなら、
そのとき、あなたは観察者なしにその全体を見ます。
これについて来ていますか。
そこであなた、それをやってご覧なさい。

そのとき、あなたは途方もないことが起こったのに気がつくでしょう。
あなたはどんな葛藤も持ちません。
葛藤が私たちのあるがまま、私たちの生きざまです。
家庭で、事務所で、眠っているときでさえも、私たちは常に葛藤のなかにいます。
絶え間のない矛盾と戦いとがあります。

この葛藤の根を、あなた自身で理解するまで、
あなたは平和と喜びの生を持つことはできないでしょう。
何が葛藤・矛盾を引き起こすのか、その根は何か、を理解することが絶対に必要です。

根はこの「観察者」と「観察されたもの」との間の分離なのです。
観察者は、たとえば彼が悪感情を抱いたとき、
「私は怒ってはならない」「私は慈しみの心を持たなければならない」と言います。
それは見せかけ、偽善です。
それ故、何がこの分離を引き起こすのかを見出すことが最も重要なのです。



そこで、この「中心」を形成することなしに、
この世の中を生きることができるでしょうか。

それは純粋な気づき―
動機や選択のない、全的な気づきがあるときにのみ可能だと思います。
あなたがこのことを実践し、深く深くそのなかに入るなら、
そのような気づきは、経験に対する反応の蓄積物である「中心」を形成しない
ということを見出すだろうと思います。
そのとき心は、驚くほど生き生きと創造的になります。
それは、自己がまったく存在しない創造性です。
葛藤のまったくない状態、心の平安と落ち着きの状態―
結局のところ、それが私たちの求めているものなのではないでしょうか。



気づきは、観察者と観察対象との分離のない、いま現にあるものへの完全な引き渡しです。
それは非蓄積的なので、肯定的にも否定的にも自己を築き上げません。



このすべてを調べてしまった今、心はどんな状態にあるでしょうか。
観察し、調べてきた心は、どんな理解の状態にあるでしょうか。

なぜなら、その状態にすべてがかかっているからです。
あなたが実際に、一歩一歩旅をし、私たちが論じてきたあらゆることを調べてきたなら、
そのとき、あなたの心は途方もなく聡明で生き生きとし、敏感になっているはずです。
なぜなら心は、蓄積してきた重荷のすべてを投げ捨ててしまっているからです。
今、どんな風に思考の過程全体を観察していますか。
そこから考える中心がありますか。
―検閲官である中心、判断し、非難し、評価、正当化する中心が。
それとも、そこから考える中心がまったくないでしょうか。
にも関わらず、思考はありますが。
その違いが見えますか。

思考は中心を「私」として作り出してきました。
私、私の見解、私の観点、私の知識、私の経験―
それがそこからあなたが行動する中心です。
その中心は分離を引き起こします。
明らかに、その中心、その分離は争いの原因です。
他の誰かの意見に対するあなたの意見、あなたの真理、私の真理、
それらはすべて思考によって作り出された分離です。

あなたはその中心から観察し、なお恐怖に囚われています。
なぜなら、その中心は、
自分が恐怖と呼んでいるものからそれ自身を切り離しているからです。
それは「私はそれを免れなければならない、それを克服しなければならない」などと言います。
そして、そのことによって恐怖を強めています。

心は中心なしに恐怖を見ることができるでしょうか。
それに命名することなしに、その恐怖を見ることができるでしょうか。
それを「恐怖」と呼ぶや否や、それはすでに過去のなかにあります。
何かに命名する瞬間、あなたはそれを分離するのです。
それ故、それが起きている今、この瞬間、
それに命名することも中心もなしに観察することができるでしょうか。

それはものすごい規律を必要とします。
心が中心なしに観察するとき、
隠れたものと表に現れたもの、両方の恐怖の終わりがあります。
今、あなたがその真実を見ていないなら、
考えるべき問題として家に持ち帰らないで下さい。
それは即座に見られなければならないことです。
何かを明らかに見るためには、
自分の知性と感性の全体を即時にそれに注がなければなりません。



観察者が、自身の反応が「恐怖」であるということに気づく。
それは前もって既に知られている、あの「恐怖」なのだということに気づく
―そこに、分離、分裂が生じるのです。



自由は、我々の日常生活における、
選択なき、判断なき、純粋な観察のなかにある。

あなたが自身の意識を観察するとき、
まず、思考者と思考、観察者と観察される対象、
経験者と経験される内容とのあいだのギャップを見ることだろう。
しかし、更に進むなら、やがてあなたは、この「分離」の錯覚たることを知るに至るだろう。

そのときにのみ、過去の影なき純粋な観察・洞察が起こり得る。
この超時間的洞察が、精神に深くかつ根源的な変容をもたらすのである。



観察者の構造と、その運動を理解しなければなりません。
その理解によって観察者は消えるでしょう。
観察者とは、記憶、知識、伝統、欲望といった
数々の無意識的反応を抱えた「過去それ自体」です。
それは常に自己存続的な運動をくり返し、安心感、安定感を求めます。

観察者と、その自己存続的欲求に気づくためには、
「自分は別個の存在である」という
分離的な感覚を形づくる無自覚的な運動のすべてに気づいていなくてはなりません。

日常生活のなかで、関係のなかで、ひたすらに観察しなさい。
活動中の私をじっと見つめること―それこそが瞑想なのです。



観察者が、自分と一体化している全てのものを捨て去るとき、
観察者は跡形もなく消えてしまう。



私は、自分が持っている信念、依って立っている世界像、経てきた宗教的経験、
達成、境地などを誰かが脅かしていることに気づきます。
そこで恐怖が生じます。
しかし、その恐怖に気づいた瞬間、もし分離がないなら、
私は一気に核心に達するのです。

「観察するものは観察されるものであり、観察する私こそが、この恐怖そのものなのだ」
という、この根源的事実をひとたび把握すれば、以後、この二項の分離はなくなるのです。



この「経験」というものは非常に奇妙なものです。
あなたが自分の経験に気づいた瞬間、その経験は既に終わっています。
「自分は幸福だ」と知ったときには、既に私は幸福ではないのです。

この測ることのできない実在を経験するためには「経験者」が終わらなければなりません。
この、経験者、経験する私とは、過去の―積み重なった幾千もの記憶痕跡の―塊です。
彼は自分が経験してきたものごと全ての堆積物なのです。
彼が「私は実在を経験しなければならない」と言うとき、
そして、その実在を経験し、認識するとき、
彼の経験するものは実は実在などではなく、
彼自身の過去、条件づけの投射なのです。

そういう訳で、思考者と思考、経験者と経験内容とは同じである
ということを理解するのが非常に重要なのです。
それらは別の物・分かれた二項ではありません。
経験内容と離れた経験者が存在するとき、経験者は更なる経験を求めます。
しかし、その経験は常に彼自身の投射であるに過ぎないでしょう。

実在―始めも終わりもない状態―を本当に見出そうとするなら、
ひとはこの「経験者」の問題全体を調べ尽くさなくてはなりません。
経験を求める私があるかぎり、実在の経験はないでしょう。
経験者―この、神を求め、神に祈る実体―が完全に止まなければなりません。
そのときにのみ、あの測り知ることのできない実在が生じることができるのです。
そのために、ひとは自身の無意識を深く調べ、その暗部のすべてをあらわにし、
その全体を浄化して行かなくてはなりません。
私たちが、自身のなかに幾千年もかけて作り上げてしまった、
そして、そのなかを絶えずさまよっている全ての迷路をあらわにするには、
多くの骨の折れる作業を必要とします。

自由であること―
楽しいこと、苦しいこと、自分が持ったあらゆる経験に対して死ぬことは、
もっとも難しいことのひとつです。
しかし、それをしたときのみ、心は自由に生きることが、
自由に全的に作用することができるのです。

それには選択のない気づきが、
そのなかであらゆる隠された切望、願望、衝動があらわにされる、受動的な気づきが必要です。
そこでは心は何の選択をすることもなく純粋に観察しています。
選択するや否や、あなたは微妙な形で権威・パターンを樹立してしまうのです。
それゆえ心は、もはや自由ではありません。

思考の、ひとつひとつの動き、そのひとつひとつの含蓄、
欲望、願望の意味に気づいていること。
そして受容も否定もしないで追跡し、取捨することなく見守っていくこと―
これが心を権威から解放するのです。
そして、この自由は、終りにではなくて始めにあるのです。

したがって瞑想は、制御・訓練・願望や教義によって心を形作る過程ではありません。
心がそれ自身の過程の全体を理解し始めるとき、
そのとき、あなたはどうやって思考が権威になっていくかということを知るでしょう。
記憶や知識、経験―思考を導く思考者の思考が権威になるということを知るでしょう。

心は、それ自身の運動とその動機、動因に気づいていなければなりません。
そうしてあなたが非常に深く、深く、調べ抜いたとき、
思考の権威がまったく止んでしまったことに気づくでしょう。



観察者と観察されるものとの間の間隙、距離、時‐空こそが、矛盾・葛藤の本質なのです。
心はそれ自身を、観察者と観察されるものという分離なしに観察できるでしょうか。
あなたが嫉妬したとき、それを自覚したとき、
「私は嫉妬してはならない」と言う観察者が常に居ますね。
あるいは観察者はそれを正当化し、それに弁明を与えます。

観察者と観察されるものとの間に分離が存在します。
観察者は、嫉妬を彼自身から離れた、
彼が制御すべき、操作すべき何かとして見ます。
それ故に、観察者と観察されるものとの間に葛藤があります。
しかし、観察者・私とは、多くの断片のなかの一断片、
嫉妬の一断片であるに過ぎないのです。



これらの問題を深く探るとき、
ひとは「分析する者は分析される内容である」「思考する者は思考である」
「観察する者は観察されている対象である」という抜き差しならぬ事実に直面します。
それは現実の存在の事実であり、理論上の話ではありません。

観察者―あなた、見る中心、聴く中心、
すなわち「観察される対象から離れた、持続する実体」は存在するのでしょうか。

ひとが「私は怒っている」と言うとき、
その「怒り」は、それを認識している実体・主体とは異なっているでしょうか。
それは、観察者とひとつながりなのではないでしょうか。
どうか、これは理解すべき大変重要な事柄です。

観察者、私、経験者、思考者は、
彼が経験する「事象」「経験内容」「思考」とは異なっているのでしょうか。

あなたが木を、あるいは夕日を見るとき、
見ている者は彼の経験する内容とは異なっているでしょうか。
あなたが一本の木を見るとき、
あなたはそれを、知識に基づいて、かつて見た経験に基づくイメージを通して見るのでしょうか。
それとも、直に見ますか。

あなたは言います。
「そうです、私はその素晴らしい色彩を知っているのです。何とその形は美しいのでしょう」と。
あなたはそれを思い起こします。
そしてそれから、その記憶―
その時の感情に近いものを伴う記憶その他がもたらす情感を楽しむのです。

今まであなたは、
観察者を観察されるものとは異なったものとして感じてきたのでしょうか。
このことを深く突き進めることなしに、その誤りを知ることはないでしょう。

観察者と観察される対象との間に分離がある限り、そこには葛藤があります。
イメージ、知識、心地よい体験の記憶など、
心のなかに生ずるものが観察されるものから分離した観察者を作り出し、
心のなかに葛藤を引き起こします。
思考がこの分離をもたらしたのです。

あなたは自分の隣人、妻や夫、友人などを見ます。
しかしそれが誰であれ、
それをその人に関する心理的な蓄積・記憶なしに、
思考に基づくイメージなしに見れますか。
あなたがイメージを通してその人を見ているならば、そこには関係はないのです。



質問者:恐怖と出会ったとき、どうしたら、それに“なる”ことができるでしょうか。

クリシュナムルティ:あなたは恐怖です。
どうやって、そのあなたが、それになることができるでしょう。

あなたが恐怖なのです。
ただ思考が、それにどう対処したらいいのか分からないので、
それに抵抗し、自分をそれから切り離してしまったのです。
思考は抵抗したり逃げようとしたりして、その恐怖の観察者になります。
しかし、観察者―抵抗している“それ”―もまた恐怖なのです。



質問者:私は私の混乱を認めます。

クリシュナムルティ:ああ!
あなたが「私は私の混乱を認めます」と言うや否や、それを認める実体があります。
あなたには、このことの重要性が見えていません。

私は、私の混乱を観察します。
その観察において、
私は外部の観察者として私の混乱した意識を見つめているのでしょうか。
それとも、この混乱の一部として観察しているのでしょうか。
私がこの混乱の一部であるなら、心は完全に静かになります。
そこに動きはありません。
そこから離れ去る動きの一切がやんでしまいます。
したがって、観察者と観察されるものとの分離がないなら、
混乱の完全な終結があるのです。



質問者:恐怖があり、そしてそれから離れようとしている自分自身に気づきます。
どうすればいいのでしょうか。

クリシュナムルティ:まず第一に、離れようとしている事実に抵抗しないことです。
あなたは非難も判断も評価もしないで、恐怖をただ観察しています。
あなたがそこから離れていってしまうとき、注意がそれてしまっています。
そこには不注意があります。

不注意でいましょう!
しかし不注意であることに気づいていましょう。
それについて、どんなこともしないで。

「不注意であることに気づいていること」そのものが注意それ自体です。
ただあなたが不注意であることに気づいているだけです。
そのとき、まさにその気づきそのものが注意なのです。
それは非常に単純です。
一旦このことを見るなら、まったく葛藤を除去するでしょう。
それが選択なしの注意です。
あなたが「私は注意してきた。しかし、今、駄目になってしまった。
また注意を取り戻さなくては」と言うとき、選択があります。
気づいているということは選択なしに気づいているということです。



制御は、制御者と制御されるものとの間の分離を意味します。
それはまた葛藤を意味します。
このことを理解するとき、制御と選択は全面的に終わります。

この全ては、
あなたが今までに考え、やってきた事と正反対のように見えるかも知れません。
「制御なしに、意志の行為なしに、なぜ秩序があり得るのか」と、
あなたは問うかも知れません。

しかし、いま申し上げたように、
制御は制御者と制御されるものとの間の分離を意味し、
この分離のなかには葛藤があります。

あなたが実際にこのことを理解するとき、
制御者と制御されるものとの間の分離の終わり―
したがって理解があるのです。
「現に存在するもの」の理解があるとき、そのとき制御の必要はありません。



秩序は、怒っており、そしてその怒りをどうにかしようとしている人が、
「自分は怒りそれ自体である」ということを見るとき生じます。
この理解なしに瞑想が何であるか知ることはできません。



私は、このマイクロフォンを見ます。
それは私と分離しています。
なぜなら私はマイクロフォンについて知っているからです。
それは私とは別の何かです。

同様に、私は嫉妬深い。
嫉妬の感情は私とは違います。
このことはたいてい私たちにとって真実です。
私は嫉妬深い、私の嫉妬....

しかし、それは本当にそうでしょうか。
観察者自身が嫉妬なのではないでしょうか。

観察者であることなく木や人を注意深く見ることは、その対象と親交することです。
私たちは通常、自分の偏見と記憶、イメージのすべてを伴って、自分の妻や夫を見ます。
その「過去」が、そこから私が見ている中心、私という核なのです。
したがって、観察者は観察されるものとは異なっているのです。

その過程のなかで、連想の素早さを伴って思考は絶えず干渉してきます。
私がそのことの構造全体を直ちに理解するとき、観察者なしの観察があるのです。

このことを、木や自然と行うのはたやすいことです。
しかし、その対象が人間になったとき何が起こるでしょう。

私が自分の妻や夫を、観察者としての分離なく見ることができたなら、
それは私をぎょっとさせるのではないでしょうか。
なぜなら彼や彼女との関係がまったく異なっているからです。
私はそれを恐れるのではないでしょうか。

私は木を恐怖なしに見ることができます。
なぜなら自然と親交することはかなり簡単だからです。
しかし、人間と親交することはもっとずっと危険であり、ぎょっとさせるものなのです。
私の人間関係全体が途方もない革命を受けるのです。

これまでは、私は彼女を所有したし、彼女も私を所有しました。
私たちは互いに所有されることを好みました。
自分自身の孤立した空間のなかで生きていたのです。
観察することで私はその空間を取り去りました。
私はいま、直接接しています。
私は観察者なしに、中心なしに注意深く見ています。



「あるがままのもの、事実あるもの」と観察者との間に距離・空間があります。
その距離がエネルギーの浪費なのです。
なぜなら、それは時間を含んでいるからです。

しかし、否定することなしに、自然に、自発的に全的な終止があるとき、
空間はなく、事実を見ている観察者はなく、事実のみがあります。



観察者と観察されるものとの間の分離が存在するかぎり、
葛藤は果てしなく続くに違いない。
そのことの事実を、自分自身の観察を通して理解することが重要です。



観察者と観察されたもの、思考者とその思考とは一つです。
しかし、思考者とその思考とを一つの過程として経験するのは非常に難しいことです。
と云うのも、思考者は常に、その思考の背後にすり抜け続けるからです。

思考者は、それ自身に継続性・永続性を与えるために、
思考からそれ自身を切り離します。
そうしておいて、その思考を修正したり変更したりしようとするのですが、
しかし、思考者として依然として残ります。

この、思考者自身から切り離された思考の修正は、あなたを永遠の葛藤に導きます。
思考者は、その思考なのです。
観察者は、観察されたそのものなのです。

この事実を理解することはきわめて難しいことであり、
正しい瞑想がそれへの道なのです。



それを調べるために、木から始めましょう
それはもっとも客観的な対象です。

それを完全に観察して下さい。
観察者なしに、分離なしに、という意味です。

それを観察するということは、
あなたとその木のあいだの分離なしに、
その木についてのあなたの知識、思考、イメージによって
作り出された間隙なしに見ることを意味します。
そして、そのように(イメージ、過去のものの蓄積なしに)
あなたの妻、夫、友人を見て下さい。

そのとき、あなたは何という途方もないことが起きたか知るでしょう。
これまでの人生のなかで、そのような何かをあなたは決して見たことがありません。
全的に観察するとは、分離がないことを意味します。



思考は、思考者が自身を理解するとき、
すなわち、思考と思考者が二つの別々の過程ではないことを見るとき、
初めて終わる。

思考者は思考なのですが、
それは自己存続のため、それ自身を思考から分離するのです。
そのようにして思考者は絶えず変化しながら思考を生み出し続けるのです。



思考を取り除いて後、どこに思考者が残るでしょう。
あなたがあらゆる思考を、良いものであれ悪いものであれ、
その終りまで追跡し、完了させてゆくと、精神は減速します。
自己を理解するためには活動中のそれを注視しなければなりません。
これは精神が減速するときにのみ可能です。
そしてそれは、あらゆる思考を、
それが起こるつど、最後まで辿ることによって為されます。
するとあなたは、空っぽで完全に沈黙としてある意識の前に、
あなたの非難、願望、嫉妬が現われてくるのを見るでしょう。



記憶を材料として経験者が生じるや否や、そこには葛藤があるに違いありません。



種々様々な恐怖を見つめることができるでしょうか。
それを名づけることなしに、観察者なしに見ることができるでしょうか。
と云うのは、観察者は観察される当のものだからです。
観察者自身が恐怖そのものなのであって、彼が恐怖を観察しているのではないのです。


バラへの気づきがあり、さらにバラに対する反応への気づきがあります。
私たちはしばしば、このバラに対する反応には気づいていません。
実際には、バラを見るのと反応を見るのは同じ気づきです。
それはひとつの動きであり、
「外側の気づきと内側の気づきがある」と言うのはまちがっています。

世界は、記憶である私とのさまざまな関係において見られ、
ありのままに見られることはありません。
それでは、どのような判断もなく、木に気づき、観察できるでしょうか。
また、どのような判断もなく、反応や反発を観察できるでしょうか。

このように、私たちは木を見、同時に自分自身を見ることによって、
分離の原則―私と私でないものの原則―を根絶するのです。
したがって、この事実を見ることのなかに、言葉である私はありません。
どのような事実を見る場合にも私はありません。
私があるか、それとも見ているかのどちらかです。
それらは共存できません。
「私」とは、見ていない状態なのです。
「私」は見ることができず、気づくことができません。

過去が私なのです。
現在に私はありません。
心が過去のなかを動きまわっているかぎり私があります。
心とは、この過去に他なりません。心がこの私なのです。

木があり、木に対する言葉や反応があります。
これが監視者・私であり、過去から来たものです。
次に、「この一切の混乱と苦悩から逃れられるだろうか」という問いがあります。
もし「私」がこの質問をしているのならば、それは堂々巡りになるのです。

そこで、その全てに気づくと私はもう問わなくなります。
その全てに気づき、それが分かったので私は問うことができません。
その罠を見るので、問うことがまったくないのです。

さて、この気づきはすべて表面的なものだということが分かりますか。
それは木を見るときと同じ気づきなのです。
もし動機があれば、私たちは条件づけられた反応の罠に戻ってしまいます。
観察者が、強いられてではなく完全に沈黙するとき、
そのとき起こる気づきは明らかに異質なものではないでしょうか。



見る中心があるとき、空間はきわめて限られる。
中心、つまり思考によって組み立てられた「私」という構築物が全く存在しないとき、
そこには広大な空間がある。
空間がなければ、秩序、明晰さ、慈悲心はない。
努力や意志的な行為が一切ないところ、
広大な空間があるところに生きることこそ瞑想の一部である。



思考そのものが、この間隔、分離なのです。
思考は常に自己分裂して断片となり、分離を生み出します。
それは常に観察するものを切り刻んで空間内の断片としてしまうのです。
あなたと私、あなたのものと私のもの、私と私の思考などというように。

思考が自身と観察対象との間に作り出したこの空間は、現実的なものとなります。
そして分離させるのはこの空間なのです。
そうしておいてから思考は、この分離の上に橋をかけようとするのです。
このように、思考はいつでも自身に仕掛けたトリック・自己欺満に耽り、
融合を願っているのです。



今朝、私たちがしようとしているのは、
この途方もない注意があるとき、
観察者、あるいは検閲者としての中心がないとき、
心―この脳構造の全体―に何が起こるのかを、私たち自身で見出すことです。





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